大正9年6月18日付『都新聞』に「浅草へ来た不作法物 人に似た猿猴」と題した続きがある。男は五六年前に帰朝し山梨に帰ったと消息を語るとともに“ゴリラ女房”譚だったことも匂わす。後段は花屋敷に戻り、来たのはつがいの“ゴリラ”で「英領ボルニユー」産の「ヲランコタン」だとする。#本朝ゴリラ渡来史
見つかるときは見つかる。浅草の市川團十郎の銅像について大正9年7月13日付『都新聞』の「浅草」に「團洲の暫くの銅像は上野の南洲の銅像と好一対の力だめしの含み紙の的に成つてゐる」とあった。この銅像もか。「含み紙の的」とは紙つぶてをぶつけられていたということなのだろう。他記事も探さねば。
閉店広告で初めてこの「わんぷらいすしよつぷ」の名前を知った。間違いなく百均のご先祖筋であろう(笑)大正9年7月16日付『都新聞』、店名で検索してみると言及する本はそこそこあり、知る人は知っている店だったようだ。
大正9年夏、芝浦埋立地一号地を利用した「芝浦納涼遊覧会」というイベントが行われた。7月24日付『都新聞』の「涼しい郷へ」と題した納涼特集記事に場内の凝った噴水が載っている。ささまざまな余興や設備が用意され、その一つとして「八幡薮」があった。その委細が記事にないのは惜しまれる。#噴水史
時期からすると、五代勝文斎の記事だろうか。大正9年9月29日付『都新聞』が「名人気質の勝文翁」「新工夫の押絵細工」云々として、人形町で絵馬や羽子板などを商う家の「勝文」という当主を訪ねていた。従来の錦絵風の押絵ではない、役者の写真を基にした写生風の押絵を試みているという話が出てくる。
こんなところにも「人形町の勝文」の名前があった。息子が勝文の弟子だったという蔵前の絵馬屋のおばあさんが昔を語る。大正9年12月18日付『都新聞』
千葉市川の東華園での菊人形展示を巡って事故が起きた。大正9年11月18日付『都新聞』。「猿廻し」の人形に生きた猿を綱で繋いで組み合わせるという趣向が悲劇の伏線に。退屈した猿が暴れるからと動きにくいよう綱を短くしたばかりに、犬に襲われても身体の自由がきかず、あわれ噛み殺されてしまった。