御真影事情。昭和2年5月25日付『河北新報』夕刊。先帝の諒闇明けから新帝の御真影を大量複製し下賜するにあたり、宮内省が民間写真業者を使わず「省内写真館に全国総動員を行つて謹製する」方針なのが面白い。省内写真館がまず気になる。「先帝の御真影は宮中に奉還」というルールだったのも興味深い。
奇人を見つけた。昭和2年11月14日付『河北新報』朝刊。決して奇行の類ではなく「日本の食糧問題解決の一端として」あらゆるものを試食してみせ講演するという啓蒙活動を行っていた熊谷政治なる男性を紹介する。それで「人糧道」と掲げたのか。明治44年10月11日以来、1600種余りの物を口にしたらしい。
瑞巌寺の手前に「鶴園」「鹿園」とあり、この鶴と鹿を水族館へ移したということだろう。昭和2年11月10日付『河北新報』朝刊。
カフエーにしても、西洋料理店にしても、大正12年の新聞広告を見ると「栗御飯」に「松茸御飯」に「小鳥のトロ焼」と洋風とはいささか相容れぬ趣で、パウリスタがいったいどんな店だったのか、ますます気になってきた。
種々の悲喜劇を呼んだ御真影に劣らず奉安庫も難儀な代物であった。昭和4年5月14日付『河北新報』朝刊。昭和2年に竣工した小学校の奉安庫につき建材が腐木、敷地が校庭より低位置と奉安庫の尊厳を損なう施工だとして建てた村当局と寄附した村民でトラブルになった。改築の約束が履行されず問題が再燃。