7月10日付『大阪毎日新聞』には人魚の興行を行った不老会が広告を出していた。絵葉書を発行したのであればいずれ見つかるかも知れない。「人魚ざし」とは何を売ったのだろう。希望者には1000名限定で黒焼を配るというのも気になる。何を黒焼にしたのか。 
   大正4年10月1日付『都新聞』、松旭斎「天一」を名乗った女性マジシャンがいたのか…?(この後の紙面では見失った)#奇術史 
   該当の『文藝春秋』は昭和5年3月号であった。載った場所は社員による雑文集「社中綴り方」なる連載企画でお題「いかもの見物記」に沿った内容になっていた。ここで岡部龍が渋谷道玄坂の見世物小屋で見た赤ん坊の見世物を報告している。絵看板や口上と現物の落差に観客は不満たらたらだったようである。 https://t.co/6yssRcjHw6 
   徳川吉宗の時代に渡来し、天覧のため位階を授けられた「従四位の象」の頭骨が大正4年7月27日付『やまと新聞』夕刊(26日発行)に載っていた。東京上野で開催中の江戸記念博覧会に参考出陳される縁で紙面に登場した。 
   昭和54年6月17日付『大阪日日新聞』の口裂け女記事は「列島一巡ようやく下火」としてブームが終焉に向かうことを示唆する内容だった。前年の暮れにこの怪談は「岐阜県下の山合い」で生まれ、県内の大垣市や岐阜市を経ていったんは西へ西へ向かって伝播し、その後に追って東上北上したと整理している。 
   藁人形への釘打ちにこのような作法を持つ地域もあったのか。大正12年6月5日付『都新聞』毎晩一本ずつの釘を打ち、49本を打ち込めば願いが叶うとされていたという。成就寸前に人に見つかってしまったこの場合、どうなってしまったのだろうか。顛末が気になる。 
   大正13年7月10日付『都新聞』、関東大震災で損傷し撤去された浅草十二階こと凌雲閣の跡に出来た凌雲座で、異種格闘技戦の興行があったようだ。 
   雑誌『美術新報』の最初期の号には #浅草珍世界 の広告や記事が出ている。順に明治35年3月30日付、同10月5日付、同10月20日付。内容から察するに美術家たちの関心を引いたのは、X線やいわゆる「魔鏡」などの展示だったようだ。 
   大正6年当時、両国国技館での菊人形興行で使う菊は毎年2000円(4000万ぐらいか)をかけて渋谷で栽培していたという。国技館が大正6年11月の火災で焼失したため、新国技館をどうするかという大正7年1月5日付『都新聞』の記事中で菊人形の今後について言及されていた。 
   若くしてただならぬ実入りを得ていた列車給仕はその収入が断たれたからといって質素な生活は送れまい。大正7年9月5日付『都新聞』、列車の乗客からくすねた金品で芸者と豪遊中に警察に捕まったこの列車給仕は当時21歳、ボーイになったのは大正元年という、10代から羽振り良くやってきた少年であった。 https://t.co/q6w0mGHNB9