大正12年の日本には既にビーチパラソル文化が入ってきていた。7月12日付『都新聞』、写真は白木屋呉服店での展示(海の旅行展覧会)の様子で、記事は「海岸傘」という直訳を前面に出して紹介している。 
   仙台のパウリスタに《納涼園》が出来た翌年、大正14年(1925)6月25日付『河北新報』朝刊に載った新聞広告。「後庭には噴水あり瀧あり納涼園として他の随従を許しません」と噴水が引き続き一つの売り物、アピールポイントとなっていたことが分かる。 
   時期からすると、五代勝文斎の記事だろうか。大正9年9月29日付『都新聞』が「名人気質の勝文翁」「新工夫の押絵細工」云々として、人形町で絵馬や羽子板などを商う家の「勝文」という当主を訪ねていた。従来の錦絵風の押絵ではない、役者の写真を基にした写生風の押絵を試みているという話が出てくる。 
   明治39年6月10日付『都新聞』、赤十字社の総会が上野公園の博物館内で挙行されるという記事の挿絵が、当時の構内の様子を伝える貴重な情報になっていた。「噴水」の二文字が確認できる。#噴水史 
   明治28年10月22日、京都で平安遷都千百年紀念祭が始まった。会場には同年の第四回内国勧業博跡地があてられている。間がないことも作用したのだろう、同日付『日出新聞』の場所割を見ると博覧会時と同じ慶流橋を渡った場所と元美術館前に「噴水」とあり、博覧会の噴水を残したものと思われる。#噴水史 
   大正4年10月21日付『東京朝日新聞』に載った靖國神社のこの「ゴリラ」は『山梨日日新聞』に載った巡廻動物園の興行と非常に時期が近い。名前の似た「教育参考会附属巡廻動物園」と「帝国巡廻動物園」の関係が気になるところである。#本朝ゴリラ渡来史 https://t.co/J7qLdxT8q0