明治41年11月末、12月初の長崎では「二代目一心斎旭玉」を名乗る一座が奇術の興行を行っていた。11月27日付・12月5日付『鎮西日報』#奇術史
大正11年9月の大阪・神戸でのオットセイの興行に関する新聞記事を見ると、調教師について『大阪朝日新聞』欄外記事は「加倉井浅吉」、『神戸又新日報』は「覚来氏」とする。後者は“カクライ”の音にこの字を当ててしまったのだろう。斯界の第一人者たる日本人がおり、帯同していたのは間違いなさそう。
明治43年7月26日付『横浜貿易新報』、狂仙「御殿場より/奇抜な広告」なる記事に「棄てられた野の石は『咳止飴』の広告を白く塗られてある」とあるのは、大正5年の『都新聞』で富士山の至る所にあると指摘された屋外広告と同じものだろう。白ペンキで路傍の石に描き付けたようだ。探せば写真があるか。