”イギリスの料理人はつねづねカレー粉を小麦粉と混ぜたルーを入れて、カレーにとろみをつけていた。シチューやキャセロール料理にとろみをつけるときに使われる手法だ。”
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竹家食堂で出していたのは肉絲麺(ロースーミェン)でしたが、芳蘭では広東人コックを交えて新しい麺料理を開発しました。
大正15年に、焼豚、メンマ、葱を入れた麺料理を新たに「開発」します。これが後の札幌ラーメンになります。
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でてきたのは日本郵船ではなく酒悦のパンフレットでした。しかしそこには、チャツネを福神漬で代用したという話は出てきません。
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ところがこの「柳麺(りゅうめん)」、日本人は発音しにくいので「チャンそば」「チャンコロそば」と蔑称で呼んでいました。
これに心を痛めた初代のおかみさんが「好了(ハオラー)」からラーメン(拉麺)と名付けると、日本人も蔑称をやめ、ラーメンと呼ぶようになりました。
大正7年のお好み焼き屋の親父は、”「これでちやんと胡麻の油が使つてあるんですからね」”としたり顔。この記事は「お好み焼きの戦前史」の無料サンプルをダウンロードすると読めます。無料サンプルだけでも楽しめますので是非!(セールストーク) http://goo.gl/6gKGcx
民俗学者柳田国男のお好み焼きの解説
”御好み焼などといふ一品料理の眞似事”
は、今までもあちらこちらで引用されてきました。しかし、その意味を理解した者は、誰もいませんでした。
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木下謙次郎によると、戦前の高級中華料理店では、醤油のみが卓上に置かれていたようです。
ところが大衆的な中華料理店では、焼売にソースやからしをつけて食べていました。これは、日本の中華料理の大衆化が、西洋料理と融合しながら広がっていったからです。明日に続きます。