ちなみに手塚治虫先生は会ったことがないから、一番インパクトの強かったこのイメージ。エンターテイナー。
「ざしきわらし」(1963年)が名作として今でも色褪せないのは、技の仕組みを細かく創作しておきながら、最終的にそれを省き、テーマである少年と老人の交流に絞ったからだと思う。
屋根裏に老人が住む作用の展開部分で設定に使用しているのはグリムの「小人の靴屋」(Die Wichtelmänner)。
#白土三平
「少年剣士宮本武蔵」(1962年)の武蔵にはカムイ伝、外伝のカムイの原形が垣間みえていて、もちろん赤目プロの設立前だけれども、後年小島剛夕さんが一部リライトした「忍者武芸帳」の重太郎部分の造形や、諏訪栄名義の「片目柳生」や「ムサシ」にもこのキャラ造形が使われていたりします。
#白土三平
「刀恨乱れ雲」天堂寺慎
左手の不自由な男がその不満を他人の左手に向ける話。天堂寺慎さんの漫画のファンというのは聞いたことがないけれど、みんな同じ顔なので服装で見分けるしかない。絵はとても上手い。
#天堂寺慎
石川球太さんの連載「アフリカ大死滅」(1974年)って「バッコス」(1976年)に何かしら影響を与えてる気がする
"若者がいるかぎり白土作品は新しい"
かつての白土三平フェアのキャッチコピー。当時「画集カムイ伝」が発売、小学館文庫「カムイ伝」が刊行開始されました。連載は「バッコス」がクライマックス。
#白土三平
※「週刊ポスト」1978年10月27日号より
白土三平は針を精確に放つのが得意なオリジナルキャラクター「スガル」の名称使用を、小島剛夕はオリジナルキャラクター「おぼろ」の名称使用を、お互いに欲しがりながらも絶対に許可しなかった。名前にはこだわりがありました。
「白土三平自選短編集 忍者マンガの世界」
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1958年「少年クラブ」掲載の小島剛夕さんや石井治さんのこれら作品は当時「絵物語」のくくりでした。
人気の「子供漫画」は線の数を減らして動きのあるマンガ絵を主体にしないとなりませんでしたので、絵物語は衰退窮まります。