宮道朝臣の後裔蜷川家は室町幕府政所頭人伊勢家家宰および政所代をつとめたことでつとに知られます。
蜷川の家名は越中国蜷川郷を所領としたことによります。
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政所代経験のない蜷川親長は長曾我部元親の下で連歌宗匠をやったり京都方面への取次をやったりしていたのですが、やがて長曾我部に代わり山内が土佐入りした際に起きた浦戸一揆で、なんと文官らしからぬ武辺ぶりを見せたとの事。蜷川家が徳川旗本に取り立てられたのにはこんな一幕があったのですね。
堀越公方執事上杉治部少輔政憲の登場もうれしい🌲
政憲は父教朝の跡をうけて執事職に就いた人で、上杉禅秀の乱を起こしたかの氏憲の孫です。
実兄の一色政煕が将軍に近侍しており、幕府との確かなツテをもつ人物でもあります。
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出ました!鉢形城!
今回のメインは道灌の泣きどころである、関東管領山内上杉家の内紛。
家宰にも武蔵守護にも任命されなかった長尾景春はもはや暴発寸前です。景春はじっさい道灌に相談しに来てるんですよね。
というかゆうき先生ここまで詳しく描いてくださるとは…🥺
とはいえ、勧修寺宮津入道の妻すなわち重能の生母(上杉頼重次女/上杉清子妹)については、『上杉系図大概』には「御加々局」、『上杉系図(上杉本)』には「加賀局」、『尊卑分脈』には「西御方」と見える。
まるで貴人の奥方の如き呼称ではなかろうか…
顕定背後に「天子御旗」🙄
天子御旗の賜与と天皇による補任により、享徳の乱以降、関東管領職を「天皇の旗本」「関八州の副将軍」とみなす認識が立ち現れてきたのだ!
木下聡先生によると、顕定以降の関東管領が無位無冠の「四郎」「五郎」であったのはこのためなのだ。
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柳田快明『中世阿蘇社と阿蘇氏』(戎光祥出版)によると、宛名の「阿蘇大宮司太郎入道」は架空の人物であり、惣領である前大宮司惟時の後継者指名権を否定する意図があったとのこと。
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長尾景春は将軍足利義政から文明3年5月に足利庄内赤見城攻略の、同年9月に上野立林城合戦の戦功を賞された御内書を与えられており、そこには「長尾四郎右衛門尉」と記されている。