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"暗い話といえば、二十三年頃、議会が終わり、日が暮れてから元園町の家(いまの千代田区麹町二丁目一三番)へ帰るのに、銀座から数寄屋橋を渡り三宅坂へ出る。半蔵門へ来るまで灯りというものが一つもない。"
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明治37年大阪生まれの作家長谷川幸延にとって、大阪のおでんといえは味噌だれを塗ったおでん。
醤油で煮込む関東煮は明治時代以降に関東からやってきた、本来の味噌のおでんとは異なるものでした(舌三寸)。
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内臓肉を使った煮込みの初出は思われるのは明治7年の東京新繁昌記(服部誠一)における烹籠(にこみ)です。
”露肆(だいどうみせ)を開いて肉を売るものあり。烹籠(にこみ)と曰う、専ら肉店に能わざる貧生を招くなり。”
これは大正14年の「東京府管内社会事業要覧」から、米騒動の直後に設立された公衆食堂、昌平橋食堂の現況です。ほかの食堂ではうどんやパンなども選べますが、公衆昌平橋食堂のメニューは「定食」のみです。
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”焼け土の赤い往来には、いろいろのものを賣る店が現はれた。第一は氷を賣るもので、第二は、すゐとん、ゆであづき、肉うどんといふ風で、ライスカレー、牛どんとなったのは白来が比較的たやすく手に入るやうになってからである。”
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一瀬直行のASAKUSA/1931年には、昭和6年頃の浅草の屋台が描写されています。
まず、値段が安い方の焼鳥屋台です。
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昭和11年の「素人でも必ず失敗しない露天商売開業案内」においても
”一番下等のコマ切れかそれでなければ肉でなくて牛の臓物を澤山混用してゐる”
とあります
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同じく大正6年の「小資本にして一躍成金たる金儲」には”車夫其他の勞働者”
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現代にするといくらぐらいになるのか。
いつもわたしは、『物価の文化史事典』におけるもり・かけそばの値段から、昔の物価感覚をつかみます。
当時のそばの値段は、1年前の昭和24年で15円。
当時は存在しなかった立ち食い蕎麦ではなく、蕎麦屋での値段です。
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焼鳥の原料について歴史をたどってみます。
明治20年代、30年代の焼鳥は、鶏の正肉以外の部分、内臓その他を原料として使っていました。
明治26年出版の「最暗黒之東京」では焼鳥の原料は「鳥の臓物」とだけ書かれています