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日本橋の洋食の老舗「たいめいけん」の創業者、明治44年生まれの茂出木心護によると、「昔は柳麺と書いてラーメンと読ませた」そうです。
茂出木さんは洋食レストラン創業者ですが、実は東京でも古参の中華料理店で修行したのです。
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札幌でラーメンの名前を定着させたのは、「これが札幌ラーメンだ」によると昭和9年にオープンしたグランドホテルでした。
そこで出されていたラーメンは、竹家食堂の肉絲麺とは全く別のものでした。
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”だが《食通》の視線にふれるや、屋台は、その日の気分に合わせて選ばれる膨大な飲食店舗群の一つになる。屋台の味は、このような《食通》のまなざしによって「街頭味覚」として「発見」された。”
”イギリスの料理人はつねづねカレー粉を小麦粉と混ぜたルーを入れて、カレーにとろみをつけていた。シチューやキャセロール料理にとろみをつけるときに使われる手法だ。”
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二代目の証言では、ラーメンと命名したのは横浜から来た広東人コックらが作った「柳麺」に対してでした。
一方「これが札幌ラーメンだ」では、山東省出身の王文彩が作る肉絲麺(ユーシミェン)に対し、ラーメン(拉麺)という名前がつけられます。
民俗学者柳田国男のお好み焼きの解説
”御好み焼などといふ一品料理の眞似事”
は、今までもあちらこちらで引用されてきました。しかし、その意味を理解した者は、誰もいませんでした。
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昭和8年の大東京うまいもの食べ歩き(白木正光)によると、丸ビルの花月食堂では支那そばは「柳(らう)めん」の名前で出されていました。
戦前の資料でラーメンを漢字表記している事例はこの2つのみ。「支那そば」表記が圧倒的に多いので、どうしてもラーメン表記の事例は少なくなります。
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ラーメンの名前を定着させたグランドホテルのラーメンは、ネギ、メンマ、チャーシュー、ナルトが入ったラーメン。
つまり、横浜あるいは東京からきた、支那そば=柳麺(ラーメン)だったのです。
ヒロオカさんが言及されていますが、上海にもウスターソース文化があるそうです。そして、昭和初期の日本には上海から料理人が流れ込み、7,8割が上海の料理人だったと雑誌食道楽昭和三年九月号にあります。香港説に加え、上海説もあるかも?です
”先生のところで稽古をした帰りには、毎日判で押したようにその頃本郷座のならびにあった三銭洋食へと、飛びこんだ。何でも三銭、馬蹄型のスタンドがあって、酒も三銭なら、カツもテキも三銭だ。”