ところが、貞和3年(1347)4月、春近領半分が信濃守護小笠原貞宗に対して宛行われた。
小笠原はついに室町幕府から春近領進出のお墨付きを得たわけである。
"デーン人は土曜日に風呂に入る"
『ヴィンランド・サガ』でも物語の発端になっていました
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上杉頼成の同時代人では伊達行朝も足柄の関を歌に詠んでいる。
富士のねを 山よりうへに かへりみて 今こえかゝる あしからの関(「風雅和歌集」旅歌)
北畠顕家を支えた陸奥将軍府の重鎮にして伊達政宗の祖父。顕家に従って二度も上洛の途についている。 https://t.co/hRhzSbjXQ9
上杉能憲は憲顕の実子ですが、重能の養子となった人。のちに鎌倉公方氏満のもとで義弟朝房とともに関東管領をつとめ両上杉と称されました。
早雲庵宗瑞こと新九郎盛時は伊勢家一族ではあるけど、伊勢守に任ぜられ伊勢の家名を始めたとされる貞継の系統ではなく、その弟盛経の子孫なんですよね。盛経流も伊勢を名乗っているということは貞継より前の世代ですでに伊勢名字であったのでは🙂 https://t.co/iuQ4o4HvOF
武田信重は上杉禅秀の乱で没落し幕府の庇護を受けた、いわゆる京都扶持衆のひとり。
父信満の敗死後、修羅の国と化した甲斐に入れず、長年西国に雌伏していたが、永享の乱を機に甲斐守護に返り咲く。
なお戎光祥さんからは信重の弟信長の論集も出ている。こちらも波瀾万丈が過ぎる人。
長尾景春は将軍足利義政から文明3年5月に足利庄内赤見城攻略の、同年9月に上野立林城合戦の戦功を賞された御内書を与えられており、そこには「長尾四郎右衛門尉」と記されている。
とはいえ、勧修寺宮津入道の妻すなわち重能の生母(上杉頼重次女/上杉清子妹)については、『上杉系図大概』には「御加々局」、『上杉系図(上杉本)』には「加賀局」、『尊卑分脈』には「西御方」と見える。
まるで貴人の奥方の如き呼称ではなかろうか…