成氏は没落、享徳の乱は終結ー
と思いきや、翌年さっそく巻き返され、翌々年には景信も死んじゃうんですよね🙃 https://t.co/0FbQYpJXcC
上杉朝定の死去については異説もあって、「上杉本上杉系図」には「於信州御原御陣討死卅三」、「群書類従本上杉系図」には「於信州寺原被誅、年三十二歳」と注記される。
信濃の御原とか寺原ってどこだろうか。御原のほうは御陣とあるので尊氏が出陣した合戦ということなのか🤔 https://t.co/AkQsBCWpRu
埼玉県立嵐山史跡の博物館と埼玉県立文書館共催の講演会「武蔵武士の中世-鎌倉から室町へ-」行ってきました🙂
岡田清一・清水亮・木下竜馬・駒見敬祐各先生の貴重なお話をうかがい、北条氏がなぜ武蔵国を重視しその国務および軍事指揮権を掌握しようとしたのか、少し分かったような気がしました。
北条氏綱遺言状では、家中が華麗を好む風儀だと、百姓ひいては国中が貧しくなり大将の鉾先も弱くなる、現在の上杉殿がまさにそうなのだと戒められている。
上杉殿ってどっちのかな?両方ですかー?
顕定背後に「天子御旗」🙄
天子御旗の賜与と天皇による補任により、享徳の乱以降、関東管領職を「天皇の旗本」「関八州の副将軍」とみなす認識が立ち現れてきたのだ!
木下聡先生によると、顕定以降の関東管領が無位無冠の「四郎」「五郎」であったのはこのためなのだ。
#新九郎奔る
東海道の難所として知られる小夜(佐與)中山は「佐江中山」とも書いたんだね(「佐藤元清軍忠状」)
「佐江」はやはり遮(さえぎ)るの「さえ」ということかしらん🤔 https://t.co/88CcHxJXYy
#新九郎奔る
出ました!鉢形城!
今回のメインは道灌の泣きどころである、関東管領山内上杉家の内紛。
家宰にも武蔵守護にも任命されなかった長尾景春はもはや暴発寸前です。景春はじっさい道灌に相談しに来てるんですよね。
というかゆうき先生ここまで詳しく描いてくださるとは…🥺
柳田快明『中世阿蘇社と阿蘇氏』(戎光祥出版)によると、宛名の「阿蘇大宮司太郎入道」は架空の人物であり、惣領である前大宮司惟時の後継者指名権を否定する意図があったとのこと。
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万人恐怖の将軍足利義教は岩松家純の大恩人だった…
普光院殿義教公被召源慶院殿、当家再興之高祖是也、京都之御鴻恩与源慶院殿御遺言也
#松陰私語 https://t.co/YgBdJV1eKk
政所代経験のない蜷川親長は長曾我部元親の下で連歌宗匠をやったり京都方面への取次をやったりしていたのですが、やがて長曾我部に代わり山内が土佐入りした際に起きた浦戸一揆で、なんと文官らしからぬ武辺ぶりを見せたとの事。蜷川家が徳川旗本に取り立てられたのにはこんな一幕があったのですね。