「年代記配合抄」によると山内・扇谷の合戦は永正2年3月まで続いていたようだが、同年4月には上杉顕定が佐竹義舜に「抑旧冬招越越州衆進発、然間、武・相両州敵城、或自落、或攻落候故、速静謐」と書き送っており、すでに和睦が成立している。
ここに長享の乱はようやく終結を見た。 https://t.co/6Axo9G3ErF
なんとも残念…
蜷川氏は室町幕府政所頭人伊勢氏の家宰として『新九郎、奔る!』にも登場していました。 https://t.co/R64VXbbXS5
ところで、時行の名字の訓み方なんだけど、たしか最近「トキユキ」ではなく「トキツラ」だという説が出されていたような…
「小楠公」の楠木正行の行字が「マサツラ」と訓むからそうなんじゃないかって。まああくまでも説のひとつだけど。
#逃げ上手の若君
#北条時行 https://t.co/L1n3L3Qr9o
祖先が伊勢守だったので伊勢という名字にしたという説明も意味不明というか、ちょっとよくわかりませんよね…
#新九郎奔る
ところで、観応の擾乱における足利直義第一の腹心であった上杉重能の実父は、勧修寺宮津入道という(『上杉系図大概』)。
久保田順一氏はこれを宮道氏ではないかと推測し、上杉氏がこの時期にも勧修寺と関わりを維持していたことがわかると述べる。
宮津と宮道、たしかに音は近いけれど…うーん🙃 https://t.co/BCdWl4TAMD
武蔵吉良氏が頼高・政忠の代で所領を召し上げられ蟄居させられたというのはどういった史料・文献に基づく話なのだろうか🤔
『世田谷区史』にも、谷口雄太先生の武蔵吉良氏の論考にもそんなことは書かれていないのだけれど。
いや、ちょっとちがうか。
長尾景信は上杉龍若を連れてきた人だから…
道灌、景春は良しとして、二人の入道のうちどっちかが道真のはずなのだが…🤔
#新九郎奔る https://t.co/NQSrYIqUGj