いまも「軍都」の一面がある熊本市。健軍にある西部方面総監部は軍隊の跡地ではなく民間の軍需工場跡地。昭和18~19(1943-44)年にかけて完成した三菱重工業の航空機工場。陸測地形図には記載がないが、米軍は戦争末期に航空写真を撮ってAMS地図に反映させている。戦後の5万図は応急修正して発行。(続)
たしかに田沢湖は古く辰子潟とよばれ、田子(たっこ)と同じアイヌ語のタプコプが語源という説が有力のようですね。江戸時代の古地図を当たってみると、八郎潟という表記が多く(男鹿半島のほうは大方八郎潟とも)、田澤潟とともにタツコ潟の表記も見られました。 https://t.co/0aMfQOLMQi
国策会社として戦前の昭和初期に設立された会社の一つであった”国策パルプ工業”は旭川のほかに、苫小牧苫東の勇払工場と徳島県の小松島工場があった。いずれも山陽国策パルプを経て現在は日本製紙の工場となっている。
今昔マップで、国策パルプ時代から現在の地理院地図までを追ってみる。
#この地図ドコカナ(旧版地形図) コメント
#平塚 駅から北に向かう鉄道は #海軍火薬廠 への引込線。北郊に広大な火薬工場があった。東海道の平塚宿、明治前期の迅速測図(鉄道開業前)では本宿のほうが大きく、さらに漁村の須賀のほうが大きい。現在は境目なく市街地で埋め尽くされた。 https://t.co/jeQj6B0NxC
去る6月30日に完成供用されていた主要地方道山形県道49号山形山辺線の吉野宿工区が昨日地理院地図に反映された。新旧の地理院地図と開通通知の案内文を貼る。
戦前の20万分1帝国図で長崎県東彼杵を見ると、彼杵村とある。彼杵郡の広域地名から取った僭称的な村名かとおもうと、そうでもない。川は彼杵川。江戸時代に遡り伊能図や国郡全図にも彼杵村・彼木村。ここは昔から彼杵のようだ。そう、この地を中心とする荘園が彼杵荘だったそうだ。(続)
#この地図ドコカナ(旧版地形図) コメント
#岐阜。もとは別の町である岐阜と #加納 の市街が明治前期にはまだつながっていない。岐阜の街は、長良川沿いから岐阜城の麓、東海道線が通るとさらに中心が南下していった。以前のツイート→ https://t.co/t0LUsTpVD4 https://t.co/pFfkRHrrYf