柳田国男の記述を解読すると、以下のチャート図の右半分、江戸時代の文字焼屋台が洋食屋台の影響を受け、明治末にお好み焼きに看板を書き換えるまでの歴史が理解できるようになります。
民俗学者柳田国男は、昭和6年に発行された「明治大正史第四巻世相篇」において、お好み焼きの誕生経緯について述べています。”子供を相手の擔(にな)ひ商ひの方でも飴や新粉の細工物は通りこして、御好み焼などといふ一品料理の眞似(まね)事が、現に東京だけでも数十人の専門家を生活させて居る”
これは大正14年の「東京府管内社会事業要覧」から、米騒動の直後に設立された公衆食堂、昌平橋食堂の現況です。ほかの食堂ではうどんやパンなども選べますが、公衆昌平橋食堂のメニューは「定食」のみです。
これは俵型のじゃがいもコロッケ。コロッケの質感がすばらしく、実に美味しそうに見えます。新聞紙というのも、時代をしっかりとらえています。以前書きましたが、大正時代のお好み焼きの「容器」も新聞紙でした。
http://twilog.org/ksk18681912/date-180215 …
大正7年のお好み焼き屋の親父は、”「これでちやんと胡麻の油が使つてあるんですからね」”としたり顔。この記事は「お好み焼きの戦前史」の無料サンプルをダウンロードすると読めます。無料サンプルだけでも楽しめますので是非!(セールストーク) http://goo.gl/6gKGcx
ヒロオカさんが言及されていますが、上海にもウスターソース文化があるそうです。そして、昭和初期の日本には上海から料理人が流れ込み、7,8割が上海の料理人だったと雑誌食道楽昭和三年九月号にあります。香港説に加え、上海説もあるかも?です
”イギリスの料理人はつねづねカレー粉を小麦粉と混ぜたルーを入れて、カレーにとろみをつけていた。シチューやキャセロール料理にとろみをつけるときに使われる手法だ。”
「最暗黒之東京」において車夫の食物として挙げられているもう一つの内臓食が焼鳥です。焼鳥とは「鳥の臓物」の蒲焼のことをいいます。