いや、ちょっとちがうか。
長尾景信は上杉龍若を連れてきた人だから…
道灌、景春は良しとして、二人の入道のうちどっちかが道真のはずなのだが…🤔
#新九郎奔る https://t.co/NQSrYIqUGj
ところで、観応の擾乱における足利直義第一の腹心であった上杉重能の実父は、勧修寺宮津入道という(『上杉系図大概』)。
久保田順一氏はこれを宮道氏ではないかと推測し、上杉氏がこの時期にも勧修寺と関わりを維持していたことがわかると述べる。
宮津と宮道、たしかに音は近いけれど…うーん🙃 https://t.co/BCdWl4TAMD
上杉頼成の同時代人では伊達行朝も足柄の関を歌に詠んでいる。
富士のねを 山よりうへに かへりみて 今こえかゝる あしからの関(「風雅和歌集」旅歌)
北畠顕家を支えた陸奥将軍府の重鎮にして伊達政宗の祖父。顕家に従って二度も上洛の途についている。 https://t.co/hRhzSbjXQ9
ところが、貞和3年(1347)4月、春近領半分が信濃守護小笠原貞宗に対して宛行われた。
小笠原はついに室町幕府から春近領進出のお墨付きを得たわけである。
万人恐怖の将軍足利義教は岩松家純の大恩人だった…
普光院殿義教公被召源慶院殿、当家再興之高祖是也、京都之御鴻恩与源慶院殿御遺言也
#松陰私語 https://t.co/YgBdJV1eKk
成氏は没落、享徳の乱は終結ー
と思いきや、翌年さっそく巻き返され、翌々年には景信も死んじゃうんですよね🙃 https://t.co/0FbQYpJXcC
上杉朝定の死去については異説もあって、「上杉本上杉系図」には「於信州御原御陣討死卅三」、「群書類従本上杉系図」には「於信州寺原被誅、年三十二歳」と注記される。
信濃の御原とか寺原ってどこだろうか。御原のほうは御陣とあるので尊氏が出陣した合戦ということなのか🤔 https://t.co/AkQsBCWpRu